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年に一度、11月15日だけに御開帳される
真如堂のご本尊の阿弥陀如来像と脇仏の千手観音像、不動明王像。
今年は日曜日に当たるまたとない機会であったので礼拝に京都東山まで向かった。
京都駅へ着いてみるとバスターミナルは大混雑。
一旦、今出川駅まで地下鉄移動してバスに乗り換えることにした。
総門(赤門1695再建) 本堂(1717再建) 三重塔(1817再建)
✦頷きの阿弥陀
慈覚大師円仁が一刀三礼にて彫刻したご本尊、
完成直前に「比叡山の修行者の本尊となりたまえ」と言って白毫を入れようとすると、
阿弥陀像は首を三度横に振って拒否されたので、
「では京の都に下って、一切衆生をお救い下さい。中でも女人等を救いたまえ」と言うと、
阿弥陀像は三度頷かれたという。
✦安倍晴明の念持仏だった不動明王
真如堂御本尊の脇侍の不動明王は安倍晴明の念持仏で
不慮の死に遭った安倍晴明が閻魔大王の前に引き出された時、
この不動明王がその場に飛来して命乞いをしたという。
例年であれば執行されていた「お十夜」の大法要は新型コロナのために中止され
また、本堂の内々陣に入って御本尊側近くでの礼拝も今年は外陣からのお参りとなった。
厨子正面から御本尊様を拝むも、戸張で脇仏は見えにくく上手下手に移動して拝顔。
厨子の真横の扉から見る阿弥陀様のシルエットは美しかった。
礼拝を済ませて本堂奥の書院へ。
鈴木松年による松の間の豪快なタッチの襖絵(明治)
曽根三郎氏による涅槃像を模した枯山水の「涅槃の庭」(1988)や
上の写真、重森千青氏の「隨縁の庭」(2010)など近年の作品も多い。
一通り紅葉の写真を撮り終えて
さて次は、くろ谷の金戒光明寺へ行けるかなと考えていたところ
何やら本堂でお坊さん方が慌ただしくなってきたので尋ねてみれば
これから御本尊の閉扉の法要の準備に取り掛かるとのこと。
そうそう立ち会えない瞬間をこの目でみたくなり、
予定を変えてそのまま本堂で法要に参加することに。
運よく阿弥陀様と目が合う位置に陣取れて合掌。
天台浄土系のお経はよく分からないが無量寿経?かな??
読経が終わると数名のお坊さんが祭壇の前に集まり
ご住職が大きな厨子によじ登るようにして正面の扉は締められた。
一年後に再び厨子の扉が開く時には新型コロナも終息し、
いつも通りの「お十夜」で御本尊を迎えられることを期待したい。
●美味しいものガイド
・茂庵☞
・お多やん☞
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熾盛光如来は大日如来の仏頂尊(頭の頂におられる極めて崇高な仏様)で
国家鎮護、天変地異・疫病鎮静を祈る天台宗最大の秘法「熾盛光法大法」の本尊。
寺院の本尊として 熾盛光如来を祀るのは青蓮院のみ。
高台寺を参拝の後、夕食を挟んで
夜間拝観がなされている東山の青蓮院を参拝した。
青蓮院は国宝の「青不動」にあやかってか
青いLEDライト一色で幻想的な世界が広がっていた。
青く染まった宸殿と四脚門
近畿三十六不動尊霊場第19番のご朱印と数珠玉を授かり
お寺を後にして、青不動尊が祀られている将軍塚へ向かうも
拝観時間をとっくに過ぎてしまっていたので
東山山頂公園の展望から京都市内の夜景を楽しむことにした。
●美味しいものガイド
・豆富料理 蓮月茶や☞
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・マルシン飯店☞
・京都 中勢以 月☞
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・そば処 桝富☞
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・Chocolaterie HISASHI☞
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方丈前庭と勅使門
この秋、京都の複数のお寺で夜間の特別拝観があるときき
東山の青蓮院と、それに先立って高台寺を訪れてみることにした。
まだ紅葉には少し早かったが、
夕映えからの寺社と街景色を堪能することができた。
ねねの道 庫裏 遣芳庵(重文)
臥龍廊 開山堂(重文)
傘亭(重文) 塔頭の圓徳院
豊臣秀吉没後、正室の北政所(ねね、高台院湖月尼)が
慶長11年(1606年)に開創した寺である。
寛永元年7月(1624年)に建仁寺の三江紹益禅師を開山としてむかえ高台寺と称した。
造営に際して
徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行ったので
寺観は壮麗を極めたという。
しかし、たびたびの火災で多くの堂宇を失い
今日残るのは、開山堂と霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月大等で重要文化財に指定されている。
なお、ねねは
天正16年(1588年)年に従一位に叙せられ、
慶長8年(1603年)に後陽成天皇より高台院の号を賜り、
寛永元年(1624年)に亡くなられた。
(パンフレットより)
ねねが居住していた高台寺塔頭の圓徳院には
秀吉の持念仏の三面大黒天が祀られ、毎月3日に法要と縁日が開かれる。
機会あればまた訪れてみたい。
●美味しいものガイド
・イル ギオットーネ 京都本店☞
・THE SODOH HIGASHIYAMA KYOTO☞
・萬治郎☞
・伊右衛門サロン アトリエ 京都☞
・やよいのカフェ☞
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・智積院は元々は紀州にある根来寺の塔頭だった。
・豊臣秀吉との対立→根来攻め(1585年)で焼失。
・徳川家康により豊国神社の付属寺院を与えられ復興する(1601年)
三十三間堂の後に向かったのは、すぐ近くの智積院であった。
智積院は近畿三十六不動の20番である。
修行僧が僧侶となるための密教儀式
伝法灌頂(でんぼうかんじょう)の数日前であったためか
お寺全体が厳かで緊迫した空気に満ちており
すれ違う若い僧侶さんたちからは何度も挨拶をしていただいた。
お不動様が祀られている明王殿ではまさに修法の最中で
若い僧らを前にして、教務と思しき僧侶が目を光らせていた。
このため邪魔をしなように遠くからお不動様に手を合わせるのみとし
早々にご朱印所へ駆け込んだのだった。
●美味しいものガイド
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この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、
現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。
鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、
南北朝時代以降、寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退。
貞治3年(1364年)建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興。この際に臨済宗に改められた。
明治に入り一時建仁寺に併合されるも明治43年(1910年)に独立した。
小野篁(たかむら)は母親の霊に会いたい一心で井戸から地獄へ行ったところ
餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母親を見つけ閻魔大王に直談判した。
その後、昼は朝廷の嵯峨天皇、夜は地獄の閻魔大王に仕えたという。
ある時、篁は地獄で苦しむ衆生を救済する地蔵菩薩に会い、
地蔵信仰を広めることを決意して6体の地蔵を彫る。
この六地蔵を深く信仰した後白河法皇は、京の出入り口6カ所に篁が彫った地蔵を祀るよう平清盛に命じた。
六波羅蜜寺を後にして清水道に抜ける路地にある「六道の辻」へ。
数年前、お盆に六地蔵巡りをしたことから小野篁の名前は強く印象に残っていて
六道珍皇寺へ吸い込まれるように寄ってみることにした。
六波羅蜜寺に比べると参拝客はずっと少なく
閻魔大王、地獄に響き渡るとされる迎え鐘
本堂脇の隙間から垣間見る冥途通いの井戸など、独特な雰囲気が漂っている。
是非、先祖の精霊を迎える六道まいりの時期に再訪してみたい。
●美味しものガイド
・コリス☞
・京都祇園天ぷら八坂圓堂☞
・祇園 さゝ木☞
・カフェヴィオロン☞
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