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播州清水寺と一乗寺を訪れた翌日、
美濃の谷汲山華厳寺の門前で「もみじまつり」があり
ご本尊様のお前立が公開されると聞きつけ、強行軍であったが礼拝してみることにした。
西国三十三所観音霊場の中で、私の住む名古屋からは一番近い場所となる華厳寺。
岐阜名古屋圏では「谷汲さん」と呼ばれ親しまれている。
子供の頃に親戚と一緒に訪れたことがあり、久しぶりの再訪となる。
参道の景色は昔のままで、親にねだって買ってもらった菊花石の店など記憶が蘇ってくる。
谷汲山華厳寺のご本尊様は秘仏であり公開されることはまずない。
2009年に54年ぶりにご本尊の結縁開帳された時も、
外陣から見えにくい位置にあり、ほとんど確認できなかったそうである。
詳細は不明だが、榎の一木造で像高7尺5寸。
像身に華厳経を書し、衣には三千仏像と諸仏の三昧耶形を描く特異な姿の像であるという。
脇仏は毘沙門天と不動明王で、これは昨日礼拝した一乗寺と同じ配置である。
お前立もまた隠れるようにして普段は我々から尊顔を拝することはできない。
▼谷汲山根元由来記
会津の豪族の大口大領が都の仏師に依頼して自らの信仰する十一面観音の像を造立した。
彼は観音像とともに会津に帰ろうとしていたが、
途中、美濃国の赤坂(現・岐阜県大垣市)で観音像が動かなくなってしまった。
赤坂の北五里の山中に観音所縁の霊地があるというお告げを受け、大口大領は同地に草庵を建立。
延暦末年に、当地で修行していた僧・豊然上人(ぶねんしょうにん)の協力を得て華厳寺を建立した。
801年 桓武天皇の勅願寺となる。
917年 醍醐天皇が「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜。
「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、
仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来。
944年 朱雀天皇は鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、一万五千石を与えた。
西国三十三所霊場の中興者と伝承される花山法皇は徒歩で巡幸し、
当寺を第三十三番札所の満願所と定め、
禅衣(笈摺)、杖、及び三首の御詠歌を奉納した。
鎌倉時代 後白河法皇が花山法皇の跡を慕って同行千有余人を従えて巡幸。
1334年 足利氏と新田氏の戦乱
戦乱で幾度となく諸堂伽藍を焼失するも本尊ならびに脇侍等は難を逃れた。
さすがに、西国巡礼第三十三番目の満願霊場というだけあって
おいずる姿の巡礼者や、先達を連れだっての団体者を多く見かけた。
豊川稲荷の分院や本堂横に聖天様が祀られていたり、現生利益の祈祷寺としての独特な雰囲気も感じる。
外陣で心経を唱え、祭壇の厨子を見上げると
華鬘と戸帳の後ろに、胸元から足元まで僅かに見える黒いシルエット。お顔は隠れて拝することはできなかった。
関係者の方に尋ねると、これでもいつもより迫り出して公開されているとのこと。
本堂の下には善光寺と同じような戒壇巡りがあり、
暗闇の中で大きな数珠に触れれば極楽へ行けるという謂れだ。
礼拝後は本堂の奥にある満願堂へ。
巡礼者は必ず満願堂でお札を納めることになっている。
こちらでも十一面観音像が祀られており、無事巡礼できたことに感謝し手を合わせる。
忘れてはならないのが、本堂入口の階段両脇にある「精進落としの鯉」である。
満願した者はこの鯉に触れることで俗世に戻ることができるのだ。
西国三十三所観音霊場巡りも、3年かけてようやく一巡することができた。
ご開帳時に合わせての礼拝であったので、多くの観音様と直接御結縁できたのが嬉しい。
これで私も「先達」の一員となる資格が持てたことになり
来年にも西国のどちらかのお寺で先達申請をしようと考えている。
▼山号 谷汲山
▼天台宗
▼谷汲山華厳寺のHP☞
▼ご本尊 十一面観世音菩薩(秘仏)
▼創建 798年
▼開基 大口大領、豊然上人
▼ご朱印…華厳寺だけで3つあり、それぞれ過去・現在・未来を表している
笈摺堂(未来) 満願堂(現在) 本堂(過去)
▼ご詠歌
過去…万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
現在…世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり
未来…今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲
●美味しいものガイド
・富岡屋☞
・えのきや☞
・萬屋☞
・三枡屋☞
・里山きさら☞
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